
早川町奈良田を紹介した文章です。
『奈良田のほととぎす 田中冬二』
その宿にはぬるい内湯があつたが、山の湯宿とか、湯治宿と言うよりはシンプルな山の宿屋であつた。
宿の入口近くに泉が滾々と、涌いていて、麦酒壜が七八本冷やしてあつた。
そしてその麦酒壜の間を金魚が泳いでいた。
それは昨年の九月十四日のことであつた。
私が奈良田をはじめて訪れたのは昭和十一年であるから、以後三十四年の歳月が経つているわけだ。
その間に奈良田はすつかり変わつてしまつた。
ダムが出来たり、台風で土砂崩れがあつたりして、奈良田の山郷らしいカラーは殆ど失われてしまつた。
外良寺で売つていた奈良法皇の焼印のある樅もみの木の杖も、名物の粟の水あめももうない。
板屋根に石をのせ千木をおき、上段の間のあった家は、瓦葺スレート葺となり、
台所はタイル張り電気洗濯機電気冷蔵庫まで揃えた都会並の瀟洒な住居と化してしまつた。
山深く開墾小屋へ泊まりがけで開墾にゆくような人はもういなくなつたらしい。
奈良田の人々の生活はたいへんな変わりようだ。
ともあれ、しばらく昔の奈良田に帰つてみよう。
障子をあけるとすぐ山が迫つている。
岩魚を調理している台所を山がのぞいている。
そんなにも山が近い。
海抜千四百六十七メートルの山だ。
その奥に更に三千メートル以上の山が三座もある。
白峰の三山−北岳間岳農鳥岳だ。
山は小さな村を抱きかかえ庇つているようでもあるし、村はまた山にしがみついているようでもある。
村の人々は山の神に深い信仰と敬虔の念を懐いている。
それ故たとえば炉の鍋の煮物にしても、それが煮えると先まず主人か主婦かがそれをとつて、
鍋の蓋にのせて山の神にささげる。
そしてそれをふたたび鍋にかえしてから、はじめて家族一同食べる。
古来そういうならわしである。
炉辺の座、それがまたきびしい。
正方形の炉の西側がおお座と言つて、その家の主人の座で東向きである。
その向かい側が嫁座、主人の左の座が北座で主婦の座、それに対しては南座で老人の座だ。
嫁座のうしろには流しや竈かまどがある。
北座の主婦の座のうしろは味噌醤油砂糖油等の調味料と、それから食器類もある板張りの戸棚である。
南座の老人のうしろには炉にくべる榾ほたが積み重ねてある。
そのうしろが雑穀や農具類の置場になつている。
この炉辺は近代風に言えばダイニングキッチンなのだ。
炉の真上に火棚と言つて雨戸を広くしたようなものが吊るされている。
まつくろに煤けていて、串ざしで焼かれた岩魚や山女魚が、そのままさされている。
この炉端の食事は一日一食は粉食だ。

そば ひえ とうもろこし あずき等の粉だ。
そんな粗末な食事も若葉の五月ともなれば、朴の木飯を炊く日もあるのだ。
朴の葉でうすいきみどりに染まつた飯は、またえも言われぬよい香りがする。
そのころになると、たお−藤蔓の繊維を糸にしたもの−を織る筬おさの音があちこちの家からきこえる。
それは風通しのよい板敷きで織つているのだ。
そんなゆうぐれ、ほととぎすがなきながら軒端近くを掠めていつたりする。
土用の炎天の正午頃を、老人や女たちが寺に集まつている。
四十余日も雨がなく日照りがつづいているので、若い者たちは朝暗い中に起き出して、
農鳥岳へ雨乞いに行つているのだ。

若い者たちが農鳥岳の頂上で這松を燃やして、雨乞いをする時刻を見計らつて寺では、
老人や女たちがこれに合わせて祈願するのだ。
雨乞いをすませた若い者たちは夕暮近く山を降りてくると、
まずいちばんに早川の流れにとびこんで禊みそぎをする。
そして帰つて来た若い者の眉宇には生気が溢れている。
これを迎え、ねぎらう老人や女達の眼まなざしの、何とまた慈愛に充ちていることだろう。
奈良田のゆうぐれの美しいひとときだ。
初出 昭和四十八年『奈良田のほととぎす』田中冬二全集
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